患者さんの負担を減らすため「もっとうまくなりたい」宮本好博先生インタビュー

本記事は、株式会社法研が2012年3月24日に発行した「名医が語る最新・最良の治療 肺がん」より許諾を得て転載しています。
肺がんの治療に関する最新情報は、「肺がんを知る」をご参照ください。

患者さんの負担を減らすため、「もっとうまくなりたい」と、常にチャレンジ精神をもち続けています。

 宮本先生はもともと、多少周囲の組織に広がっている肺がんでも、切除して根治をめざす「拡大手術」を志向していました。それが一転、「完全胸腔鏡下手術」に取り組むことになったきっかけは、2000年に「胸腔鏡下肺葉切除術」が健康保険適用となったことでした。
 当時、開胸手術を行うときには「手術時間100分以内、出血量100mL以内」をみずからのノルマとしていましたが、初めての胸腔鏡下手術を終えてみると、時間はおよそ2倍の約3時間、出血量もいつもより多め……。「これでは患者さんもこたえただろう」とようすを見にいくと、患者さんは元気そのもの、開胸手術後のグッタリ感がまったくない。体に負担をかけない手術の意義をしみじみ思い知らされ、患者さん本位の手術に改めて目覚めたといいます。
 宮本先生は中学入学までに、祖父母と母親を亡くしています。とくに胃がん手術後のがん性腹膜炎で苦しみ抜いた母親の記憶は鮮明です。母を往診に訪れる医師の言動に接するうちに、当時少年だった宮本先生は徐々に医師に敬意を払うようになっていったのです。ただ、実際に医師をめざすのはもう少しあとでした。高校時代は数学と化学が大好きで、夢はどちらかの学者になること。ところが数学の受験雑誌で、「絶対にかなわない」同学年者の存在を知り、挫折(ざせつ)。しかし、「それなら医者になろう」と奮起したのです。
 医学部に進み、臨床実習をしていた6年生のころ、宮本先生はある手術と出合います。「7歳の女の子でした」。縦隔(じゅうかく)(左右の肺の間の空間)にできた彼女のがんを、他施設では取り切れず、実習中の京都大学胸部疾患研究所胸部外科で再手術。8時間以上の大手術の末、切除に成功した場面を目の当たりにしたその瞬間「ここでやろう」と決めたそうです。
 宮本先生は、外科医として「もっとうまくなりたい」と、常にチャレンジ精神を忘れません。しかし、それは自分がうまくなりたいというよりもむしろ、よりよい手技を工夫し、確立して、若い外科医に伝えたいとの意欲です。胸腔鏡下手術を進めるうちには、さまざまな課題にぶつかりましたが、そのたびに次々に新しい手術方式を考案して、問題を解決。姫路式胸腔鏡下手術の確立をはじめ、気管の分岐部分にできたがん切除後に、気管分岐部分を再建する独自の方式、肺葉切除後の気管支断端(だんたん)の縫合不全に、横隔膜の一部を縫いつけて閉じるやり方など。
 理想の医師像として、「外科医は手術を行う技術がないことには話になりません。そのうえで自分の限界を知る謙虚さが必要です。ただし、自分を守るために萎縮(いしゅく)してしまった医療ではなんの意味もない。自分の位置をわきまえつつ、常にチャレンジする、その両方が必須なのです」。
 患者さんに手術はできないと告げるときは、なかなか言葉が出てこないといいます。「それでも決して希望を絶つことのないように、手術以外の治療法についても説明しています。肺がんの治療はどんどん進歩しており、期待度がいまだもっとも高いとしても、外科治療はその一翼を担っているにすぎません。実際、まったく希望のない状態など存在しないのですから、私自身、ほかの治療法が効果を上げてほしいという期待を込めてお話ししています」と、手術に望みを託してこられる患者さんの立場に立つことを大切にしています。
 「呼吸器の手術は術後の痛みの問題が大きいのです。開胸手術をして、痛み止めなしでもなんとかなるという状況と、傷あとがどこにあるかもわからないくらいの状況とでは、術後の患者さんの生活の質がまったく違います。これからも、体の負担ゼロの肺がん治療をめざして、挑戦を続けます」

宮本好博(みやもと・よしひろ)先生

宮本好博先生

国立病院機構姫路医療センター 呼吸器センター部長
1950年香川県生まれ。京都大学医学部卒業。京都大学胸部疾患研究所、京都桂病院呼吸器センター勤務、旧西ドイツ・ルアラントクリニク臨床留学、京都桂病院呼吸器センター医長、国立姫路病院(現国立病院機構姫路医療センター)呼吸器外科医長、国立病院機構姫路医療センター診療部長を経て、2009年より現職。姫路式と呼ぶ独自の胸腔鏡下手術方式を確立。現在、6名のスタッフ全員が胸腔鏡下手術の技術をもち、チームによる治療を行っている。


体幹部定位放射線療法(SBRT)

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