「乳がんの治療は日々、患者さんのために進化しているんです」中村清吾先生インタビュー

本記事は、株式会社法研が2011年11月25日に発行した「名医が語る最新・最良の治療 乳がん」より許諾を得て転載しています。
乳がんの治療に関する最新情報は、「乳がんを知る」をご参照ください。

一人ひとりの患者さんをフォローする体制作りこそ「人の心に灯を点す」医療ではないだろうか。

中村清吾先生

 中村先生の実家は、祖父の代より鍼灸院を営み、幼いころは東洋医学のなかで育ったといいます。「西洋医学の目でみて漢方がなぜ効くのか」を知りたくて医学部へ進学。「幼いころから鍼灸で実際に治っていく人をみてきた。だからこそ科学的にそれを解明したいと思いました。いまにして思えば、西洋医学ではもう痛み止めくらいしか出なくなり、医師との十分なコミュニケーションをもてない人たちが、うちに来て悩みを話したり、逆に諭されたりすることで癒やされたのかなと思います」。
 現在も、幼心に見聞きした体験は、中村先生にとって診療の大きなよりどころになっています。かつて祖父が鍼灸院に掲げた家訓とでもいうべき『灸は、人の身を焼くにあらず。人の心に灯を点(とも)すなり』の言葉も、「患者さんに向き合うとき、常に心の奥で響いている気がします」。
 乳がんと上手につきあえるように、患者さんの心にどう灯を点すか。
 中村先生が乳がん医療への道を歩み始めたのは、研修医時代にさかのぼります。医学部卒業後、もともと興味のあった臓器移植や人工臓器の分野に進むつもりで、外科医としての研修を積もうと、聖路加(せいろか)国際病院へ。そこで目の当たりにしたのが、日本では初めてに近い、乳房部分切除術でした。
 「あの手術に出合わなければ、乳腺外科には進んでいなかったかもしれないですね」。当時は、消化器外科華やかなりしころ、まだマイナーな乳腺の分野に可能性を感じ、その道を選んだ中村先生は、あれよあれよと進化していく乳がん診療の、まさに同時代を生きてきた当事者であり、証人といえます。「次から次へと新しい手技や薬物が取り入れられ、臨床試験の結果として標準治療が変わっていく、そのダイナミズムに大いに魅力を感じました」。
 現在は、「見えざる敵をきちんと退治する」ことの重要性が証明され、昔は一般の外科医がついでに手術していたような乳がんも、専門医が診る全身病として確立しました。いまや、薬物や放射線を上手に組み合わせてがんを小さくすることが基本、手術は治療の一部、という時代に入っています。集学的治療を標準的に行う乳がん治療のありかたこそ、がん治療の王道といっても過言ではありません。
 さらに進化は個別化治療に向かっています。分子標的薬の開発、がんの生物学的特性を特定するマーカー、予後を予測できる遺伝子解析法の登場などにより、がんの個性を知ったうえで、個人の人生観、価値観と照らし合わせ、治療法を選ぶ段階に入りつつあると、中村先生はいいます。
 「医者になったばかりのころは、十人十色、10年たつと百人百様、さらに10年後には千差万別、患者さんは一人として同じタイプはいません」。そうした多様性は、同じ抗がん薬でも効く人と効かない人がいるように、治療にも影響します。
 「患者さんの話を聞いて、考え方を共有し、多彩な治療法から最適な選択肢を出すのが僕たちの役割です」。看護師、薬剤師、ソーシャルワーカーなどと協力して一人の患者さんをチームで支える「チーム医療」にいち早く取り組み、その実績にも定評があります。「残念ながら再発する割合はゼロにはできません。以前は、せめて桜島くらいには沈静化したいというのが目標でしたが、いまは富士山を目指せます。噴火するのも忘れて、火口を眺めながら普通に暮らせる人たちも、徐々にですが、現れ始めています。乳がんの治療は日々、患者さんのために進化しているんです」。

中村清吾(なかむら・せいご)先生

中村清吾

昭和大学医学部乳腺外科教授・昭和大学病院ブレストセンター長
1982年千葉大学医学部卒業。同年より、聖路加国際病院外科にて研修。1993年2月から、同病院情報システム室室長兼任。1997年M.D.アンダーソンがんセンターほかにて研修。2003年5月より、聖路加国際病院外科管理医長。2005年6月より同ブレストセンター長、乳腺外科部長。2010年6月より、現職。

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