患者さんに対するときは「よい話、悪い話をバランスよく」金光幸秀先生

本記事は、株式会社法研が2012年6月26日に発行した「名医が語る最新・最良の治療 大腸がん」より許諾を得て転載しています。
大腸がんの治療に関する最新情報は、「大腸がんを知る」をご参照ください。

手術においても、患者さんとの対話においても、外科医は自分の中に引き出しをたくさんもって、常に準備していなくてはならないと感じます。

金光幸秀先生

 大腸のおもしろさは、バリエーションの広さにある」と金光先生は語ります。約2mの臓器である大腸では、同じがんでも発生した位置や進行度によって、求められる技術が変化します。手法の難易度にも差があり、しかも、開腹手術をはじめ、腹腔鏡下で行ったり、肛門側からアプローチしたり、手術の様式もさまざま。「がんである以上、第一義的には根治性を求めるのは当然です。そのうえで、機能をいかに温存するか、負担をいかに軽くするか。患者さんが十分納得できる治療法を選べるようにしなくてはなりません。そのためには、こちらがたくさん引き出しをもっていなくてはならない」。
 おもしろさとは、すなわち、外科医としてのやりがいであり、おもしろさの追求は、自分を磨くことにほかなりません。「外科はアートとサイエンスの両面をもつ分野。アートの部分の向上にはセンスと努力が不可欠」。レジデント時代は、白衣のボタンを利用して、病院の廊下を歩きながらでも一日中糸結びの練習をやったそうです。
 金光先生が、外科医たちの颯爽(さっそう)とした姿に圧倒されたのは、父親の手術を担当した国立がんセンター病院(当時)の消化器外科のチームと出会ったとき。「国家試験を通り医師になったばかりの年に、父が食道がんになったのです」。
 ご尊父の診療に直接あたることはなかったものの、勉強してきたとおりの特徴的な症状に心配していたところ、予想どおりの診断が。当時の食道がんの手術結果は決して良好とはいえず、手術をしても酸素吸入などの管が取れないまま亡くなる例も少なからず見てきていました。それだけに、できるだけ高い水準の治療を、と「ない伝手(つて)を頼り、国立がんセンターで手術を受けました」。患者の家族として、また同じ医師として、そこでの一連の診療への印象は「百戦錬磨を感じさせる立ち居振る舞いをはじめ、すべてが信頼に足るもの。システム的に動くチーム医療の本筋があった。父は朝、手術に入り、その日の午後3時には酸素マスクをつけて回復室で会話ができましたから、レベルの差を見せつけられた気がします」。
 そのとき、漠然と消化器外科医への憧れが芽生えていたのかもしれません。心臓外科で医師のスタートを切った金光先生でしたが、最終的には消化器外科を目指すことに。上司の理解と自身の努力で、念願の国立がんセンターのレジデントに応募がかない、3年間、トップレベルの外科医集団の中でみっちり技術を磨くことができました。「本当によい経験であり、財産です。安易に妥協しない心はそこで培われたものです」。
 開腹手術に絶対的自信をもつ金光先生にも若手時代、不要な出血を招いた苦い経験があったそうです。「幸い大事には至りませんでしたが、当時の私には体が震えるくらいの恐怖でした。自分が慢心しかけたとき、落とし穴はやってきます」。以降、二の手三の手を用意していない想定の甘さ、慎重さを欠く態度を戒め、重い教訓としています。
 患者さんに対するときは「よい話、悪い話をバランスよく」を心がけ、「常に前向きな話で終わり、安心して任せてもらえるようにします」。
 子ども時代は、「愛想がなく、無口な子」と両親から見られていた金光先生。「しゃべらなくてもよいと思って選んだ仕事ですが、結局、患者さんやチームとしゃべるのが仕事になった。でも今はそれが、よい医者の条件の一つとも考えています」。
 口数の少ないかつての少年は、今は患者さんに伝える言葉にも心を尽くしています。

金光幸秀(かねみつ・ゆきひで)先生

金光幸秀先生

国立がん研究センター中央病院 大腸外科長
1965年岐阜県生まれ。90年名古屋大学医学部卒業後、市立四日市病院外科医員、名古屋大学医学部第二外科入局。95年より国立がんセンター中央病院外科レジデントを勤め、98年帰局。2000年に愛知県がんセンター中央病院消化器外科部を経て、13年国立がん研究センター中央病院大腸外科長に就任。日本外科学会専門医、日本消化器外科学会専門医、日本大腸肛門病学会専門医、日本がん治療認定医。論文多数。

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